名護屋に赴いた秀吉は、当時松浦一の美女と評判のあった名護屋越前守経述の妹・広子を側室に迎え、山里丸と呼ばれる名護屋城の一角に住まわせた。
当時二十歳の広子は名を広沢の局と改め、彼女を寵愛した秀吉は、山里丸に建立させた寺を「広沢寺」と命名した。
広沢の局が眼病治癒のお礼に仏像を祀ったのが寺の始まりとされている。
秀吉の死後、出家した局は64歳で亡くなるまで秀吉の霊を弔ったと伝えられている。
広沢寺境内には、今も広沢の局のお墓が残っています。苔むした石の階段を上っていくと・・・・・
石段の周囲は、竹や雑木林になっている。
由来が彫られた石碑などがあり、時の流れが感じられる。
境内には、加藤清正が戦地から持ち帰って献じた大ソテツ(国の天然記念物)がある。